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いやぁ、恵まてるなぁ…本当に。

2017.05.26

先日、当館2階におきまして、
特別講演
「森林の多様性と持続的森林環境管理
 地域知と森林利用~山菜・キノコ採り研究の知見から」
が行われました。
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講師は東京大学が山梨に持つ演習林「富士癒しの森研究所」
に勤める齋藤暖生先生です(岩手県ご出身とのこと)。

先生が研究のフィールドとされている
西和賀町(岩手県内の町です)での事例を紹介いただきながら、
森林を身近にもつ人々が自然物である「山菜」「キノコ」を、
どのように認識し、どのように扱。
また、人々の「山菜」「キノコ」への行動が何を生み出すのか、
という内容のお話でありました。


西和賀ではないものの、
僕は幼い頃より山菜とキノコに恵まれた環境で育ちましたので、
講演の中で指摘されていたこと一つ一つについて、
「あぁ!あれはそういうことだったのかーー!」
と、幼い頃からの経験と照らし合わせながら拝聴しました。


例えば。
僕にはかねてよりある疑問がありました。


「なぜ近所の皆さんは、
こんなにも我が家(=実家)に山菜・キノコをくれるのか?」

ということです。


山菜の時期、キノコの時期、我が家の食卓には、
いただいた山菜、キノコを使った料理が並びます。

「〇〇さんからもらったタラボ(いわゆるタラの芽)」とか
「□□の父さんからもらったバクロ(コウタケのことです)」だとか。
しかも、それを調理した状態でいただくこともあり…。それがとても美味しい!
我ながら恵まれた環境で育ったなぁ、と思うわけです。
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が。
山菜もキノコも、〇〇さんや□□さんが、
山に分け入り、遭難や熊等の危険もある中で収穫してきたもののはず…。
なぜそれを我が家にくれてしまうのか…。
自分の家で食べてしまっても良いはずなのに…。

山菜・キノコとほぼ無縁だった学生生活を終え、実家に戻ってきて、
その美味しさを改めて実感した時から、
一層のありがたさを感じる一方で、この点がモヤモヤと疑問でした。
(実家に戻って初めての秋に食べたバクロの味は今も忘れられません…)


こんな僕の疑問を齋藤先生が知るはずはないのですが、
講演の中で、
社会(例えば我が地元のような地域の社会を指すものと思います)において、
立派な山菜・キノコを採取したこと、
それらを上手に料理できることは賞賛の対象になり、
また、優秀な採り手であることは社会的なステータスとなっているようだ、
と先生から説明があった時には、
「そういうことだったのか!」と、叫びそうになりました。
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思い返しますと、
山菜・キノコをもらった時、我が家の食卓では、
「〇〇からもらったタラボはやっぱり立派だなはぁ。」
「□□の父さんはキノコ採り名人だなは。母さんもホントに料理上手だもなぁ」
といった会話がなされます
(一部、雰囲気を感じてもらいたいので地元の言葉を使用)。

もうね、我が家では○○さんは山菜取り名人、
□□さんご夫婦はキノコ採り名人と料理上手なご夫婦、
という認識が定着しています。

そして、この「名人」という認識にはかなりの敬意が込められており、
やはりわが地元でも山菜・キノコの「優秀な採り手」であることは、
かなりのステータスになっているように思います
(その知識量と、経験値は並大抵のものではありません)。

とすると、我が家が山菜・キノコをもらっている一方で、
○○さん、□□さんは地域における社会的なステータスを得ていた、
ということなのかなぁ、と
(我が家だけがもらっている、というわけでもなさそうですし)。

という事を踏まえますと、
山菜やキノコは、食いつなぐための食材ではなく、
ハレの場等で重用される「ごちそう」として認識されていて、
地域社会におけるコミュニケーションの媒介となっているのでは、
という先生の西和賀等での調査に基づいた説明が
地元にもあてはまっていることを痛感したわけであります。
…長年の疑問が一挙に解決した瞬間でありました。
本当に聞いてよかった。

地元の○○さん、□□さんへの感謝と尊敬の念を新たにするとともに、
この先、地元の名人方に教えを乞えば、
あわよくば自分も「名人」に…。
なんて夢描いたりしている今日この頃です。


あぁ…。講演内容から離れて、嬉しさのあまり自分のことを長々と…。
すみません…。
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山菜・キノコに恵まれた環境であることはもちろんですが…。
職場がこうした学びの機会に恵まれていることにも、
本当に感謝しなければなりません…。

なお、メモに夢中で講演会中の写真を撮影できなかったので、
本日の写真は1枚目を除き、学内の森(自然観察園、植物園)の様子でした…。